例えば餃子を食べるとき、小皿の上でお醤油とお酢を混ぜてタレを作るとする。
お好みでラー油を少し垂らしてもいい。
焼きあがったばかりの餃子を一つ、また一つとタレに付けて平らげていくと、小皿の中に、餃子の肉汁が染み出したタレが少し残る。
私はそれを流しに流すことができない。
せっかくの肉汁が、ともったいなく思って、さも酒のアテでもあるかのように、ツツーっと飲み干しビールで流し込んでしまう。
お酒がない時には、そのタレのため、空になった茶碗にわざわざ小盛のご飯をよそったりする。
貧乏性のように思えるが、ただ、その旨味が溶け出したタレを捨ててしまうのが惜しいために、飲み干したくなるのである。
餃子のタレに限った話でなく、そうめんのつゆ、しゃぶしゃぶのポン酢など、食後に中途半端に残る汁気のあるものすべてに対して惜しく感じる。
大人になり、人様の前で飲み干すことはなくなったものの、タレの残り加減を気にしながらお箸を進める癖が残ってしまった。
まだほうれん草のお浸しの汁が少しと、焼き鮭の尾っぽが残っているから、次の一口からはもう少し白ご飯を控えめに食べていこう、というような塩梅である。
塩分過多で身体に悪いと分かっていても、つい、やめられない。
タレまできれいに食べ切って、ご馳走様をする。
亡くなった祖母に、白いお皿を前にして、私と食べると気持ちがいいと言われたことがある。
文字通り全部平らげていたのだから、そりゃそうだろうと思う。
しかし、飲み干す派の私でも、洋食メニューで白ご飯を合わせないときには、それほど惜しまずタレを捨てることができるのだから、不思議だ。
西洋文化圏の人は、お皿に残ったパスタやお肉のソースをフランスパンに付けて残さず食べると聞いたことがある。
フランスパンで足跡をつけるようにするらしいが、私は一切れでソースを飲み干す自信がない。
真似したらパンの食べ過ぎで太ってしまいそうだナ。
洋食メニューで面倒なのは、煮込み料理の洗い物である。
カレーも、シチューも、鍋にべっとりこびりついて取れにくい、かつ、匂いが残りやすい。
洋食調理専用の鍋を置けばいいのかもしれないが、旦那が和の口で、嫁入り道具で揃えた鍋一式はもっぱら、煮付けや煮浸しなど和風の煮物に使ってきてしまっている。
嫁ぐとき、一人暮らしの頃に使っていた雪平鍋を持っていくかどうか悩んだが、お古のような鍋に料理された洋食メニューは幸せではなかろうとよく分からない理由付けをして、ゴミ箱に捨ててしまった。

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